母のこと・・・

ご無沙汰してしまいました💦

すみません・・・


コロナが5類になってから仕事が忙しくなり

学会も現地開催になり、慌ただしい毎日💨💨


そんな中で、5月に母が入院

そして7月、入院中に急逝😞

それから寂しく、悲しく、忙しい日々が続いていました💧



母は昭和5年に6人兄弟姉妹の長子として樺太で生まれ 

豊原高等女学校在籍中に終戦を迎えました

祖父が能登から樺太に移住して商売を始めていたので

(母の話では平家一門の落ち武者の末裔らしいですが・・・真偽のほどは不明)

従業員100人ほどの商家で 恵まれた子供時代を過ごし

寄宿舎生活をしながら勉強に励んでいたけれど

終戦の日が過ぎてからのロシアの樺太侵攻で

自宅に戻った時には家も財産も失っていて・・・😖


ロシアの攻撃による撃沈を運良く免れ、引き上げ船で北海道に移住し💨

移住先の病院で事務職員として働いていた時に

医師として勤めていた父と知り合って結婚

父は函館出身で子供の頃に祖父が病死したため

レストラン五島軒(親戚)の援助で医師になり

函館、札幌でのインターン後に、勤務していた三笠市の炭鉱病院で母と知り合い💓



頭脳明晰で算盤が得意だった母は

父が三笠で開業してからはお給料計算とレセプト業務💨

当初は患者さんの食事作りも一人でこなし

兄の小学校入学時に私たち兄妹と祖母は札幌に転居し

母はお給料日前からレセプト終了までの2週間は医院で、それ以外は札幌で過ごし

父は土曜日の夜に札幌に来て月曜日の朝に医院に戻るという生活



そんな生活で真ん中子の私はほぼ放置状態だったけど😖

ピアノ、書道、英会話などお稽古はなんでも通わせてくれて🎵

お琴の師範だった母の指導でお琴の練習もさせてもらい

私が小学校に入る前から母もピアノ教室に一緒に通って

一緒に発表会に出たり

海外のピアニストやオーケストラの来日公演、札幌交響楽団の定期演奏会にも連れて行ってくれて

芸術に触れる機会を沢山与えてくれました



音大に行きたい、なんて言っていた私が

高校時代にテニスを始めてピアノをやめてしまった時

高校卒業前に医学部に行きたいから1年だけ浪人したいと言った時

母は、自分の人生なんだから自分で決めなさい

と、怒ることも引き留めることもなく



勉強やお稽古のことで叱られたこともない代わりに褒められたこともない⤵

叱られるのは礼儀作法が悪い時

授業参観の後には「授業を受けている時の姿勢が悪い!背筋を伸ばして!肘をついてはいけません!」

成績が良くても褒めてくれず

いったいどれだけ頑張ったら認めてくれるんだろう・・・、と

私はとても自己肯定感の低い子供でした💧



母が認めてくれたのは 一日も休まずにテニス部の朝練と予備校に通ったこと🎾

インターハイへの切符を手にしたことより 

医大に合格したことより

そこに至るまでの経過が大切 というのが母の持論



そんな母が唯一私の選択に反対したのは

泌尿器科医になりたいと言った時

当時は泌尿器科の女医がほとんどいない時代

苦労するとわかっている道をあえて選ばないように

両親は全力で反対したけれど

ほぼ勘当同然の状態で、私は地元に戻らず母校の泌尿器科医局に入局

医師になってからは 仕事が忙しすぎて 自分の結婚式を突然キャンセルしたり


医師になって2年目の頃に、辛くて仕事を辞めたくなった時

母に電話をして

「もう 医者を辞めたい・・」と生まれて初めて弱音を吐いた私に対して

「自分で選んだ道だから、辞めたければ辞めなさい」と・・・💦

もしかして優しい言葉で慰めてくれるかも・・、と期待した私が愚かでした



15年前に私が開業したときは

女医の泌尿器科クリニックがほとんどなかった時代なので

前例がなく 税理士さんにも経営シミュレーション不可能と言われ

家族全員が全力で反対

またまた反対を押し切って開業したけれど

その後は応援してくれました



こうして振り返ってみると

長く続けたお稽古をやめたり、突然の方向転換

前例がないところに飛び込んでばかりの無謀な人生を歩んでいる私は

両親に心配かけてばかり・・・💦


そんな私を両親はただ見守ってくれました💕



母が亡くなる前に言っていた言葉が思い出されます

子供の頃に褒めてもらえなかったり

母と一緒の時間を過ごせなかった真ん中っ子の恨み節に対して

「手はかけられなかったけれど、いつも目はかけていたよ

 なんでも一人でできる子だったから 褒める必要もなかった・・」

褒めてくれたらもっと伸びたのに・・なんて思ったりもしたけど💧

多分、私が親の言うことを聞かない子だったのかも・・・と反省😞



お料理が得意じゃない私が

お料理上手の母の食事を作る日が来るなんて考えてもみなかったけど

ここ数年は、妹が不在の日の夜は 私が実家で母の食事の準備

忙しくてあまり手の込んだものを作れず

「こんなものでごめんね 美味しいかな?」 と聞くと

「何もできなかったあなたが 食事を作っている姿を見ているだけで美味しいよ」

なんとも複雑だけど 

いつも「美味しい」と食べてくれてありがとう



母が亡くなって半年が経ち

一昨日は母の誕生日

毎年家族が集まってパークホテルでお祝いをしていたけれど🍴

今年は実家で 妹と二人で母が好きだったステーキを食べて過ごし

未だに寂しさは消えないけど

両親の遺影を見ながら 母を思い出すことができるようになりました💕



93歳で亡くなった母は

常に向上心と好奇心を持っていた人で

亡くなった後に病院から持ち帰った荷物はほとんどが本でした

その中で私が形見としてもらったのが

「重大事件でたどる歴代天皇125代」

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私と同じで 皇室と歴史が好きだった母らしいですね


そして五木寛之さんの「孤独のすすめ」

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父が亡くなってから17年 寂しい毎日の中で

母も「孤独という自由」を手に入れていたのでしょうか



お母さん いつもハラハラドキドキさせてしまってごめんなさい

見守ってくれてありがとうございました


母の名前(絹子)をモチーフにした感謝の言葉を写真立てに💓😃

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これからも誠実に勤勉に暮らしていくことが

両親への恩返し と思って頑張ります










この記事へのコメント

気仙のまっさん
2024年02月13日 10:56
お母様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。先生のブログでお母様のことを知り、強さとやさしさ、そして自分をもった理想的な生き方をした、母であり妻であり、おばあさんであったと勝手に想っていました。残念で残念でなりませんが、お母様の分まで、人生を楽しんでください。ご健康、ご多幸を心より祈っております
ほのぼの
2024年02月14日 20:30
気仙のまっさんさんコメントありがとうございます。
母は本当に厳しい人で、子供の頃おばあちゃん子だった私は母とはあまり仲良くできませんでした。
でも、年とともに兄妹の中で私が一番母に似ているような気がして、一緒にお買い物やコンサートに出かけていました。
母が亡くなってからは一緒に出かけた場所を遠ざけるようになり、あんなに好きだったクラシックのコンサートにも出かけられなくなりました😢
突然のお別れでしたが、もしかして私たちに負担をかけないように、と自ら旅立ったのかもしれません。
最後まで自分を貫いた母を尊敬しています💓
気仙のまっさんさんもお身体を大切にしてくださいね。
太郎冠者
2024年03月03日 05:00
神さまの摂理で、自分が、何故、両親の子供で、産まれたか、また、いつ死ぬかは、わからない。
寂しくなりましたね。
ほのぼの
2024年03月03日 23:18
太郎冠者さんコメントありがとうございます。
そうですね、私が両親の子どもとして生まれたことは本当に幸せだったと思います。
神様に感謝です💓
足腰が丈夫で、歩くのも早く、血圧も正常、心臓も丈夫、大腸がんを克服した母は100歳まで生きると思っていたのですが、入院中のアクシデントがもとで亡くなりました😢
寂しいですが、これも神様の摂理ですね。
毎日を大切に生きていきたいと思います。
ケニー
2024年04月27日 14:03
波瀾万丈のお母様のこと拝読しました。一度お目にかかりたかったです。
きっとお母様の誠実さ、勤勉さが、先生に受け継がれているのだと思います。
お母様が反対された、泌尿器科ですが、辛かったトイレ人生、先生に救われて、心より感謝しています。(同じ町内で、別の続先生に救われたという人がいるのですが、親戚の方ですか?)
*実は、これ、しばらく前に中国にいたときに記したのですが、うまく送れず、今になり送信します。今後とも末永く、宜しくお願いします。
ほのぼの
2024年06月19日 00:22

ケニーさんコメントありがとうございます。
返信が遅くなり申し訳ありません。
トイレの悩みは深いものがあります。
少しでもお役に立てて嬉しく思います。

厳しい母に反発して、家を出ることばかり考え、兄妹の中では母とは一番仲が悪い娘でしたが、晩年は一番の理解者でした。
結局、似た者同士、でした💦
未だに寂しい毎日ですが、90歳過ぎても背筋を伸ばして颯爽と歩いていた母の背中を思い出しながら、私も前だけ見て歩いていきたいと思います。

それと、同姓の医師は、兄です。